解剖の旅④ ー声と支えのおはなし

帰国から1週間が経ち、時差ボケも少しずつ落ち着いて来ました。
もう何度も、4日目からの記憶を文字にしては消し、を繰り返しています。色んな資料をひっくり返しながら。
うまく言葉にできることとできないことと。

今回の私の目標のひとつは、喉頭と身体をつなぐ体感についての仮説を確かめることでした。

声の指導で度々登場する「呼吸」や「支え」。
気流、気圧、腹、呼吸筋、胸郭、姿勢、脱力、丹田…様々な単語とセットになって説明される声をめぐる教えが、何を伝えようとしてきたのか。なぜジャンルにより教えに差があるのか。
私はそこに登場することのない筋膜の存在の可能性について考え続けてきました。夏からもうずっと。

“支えの正体は、筋膜を通した喉頭の引っ張りではないのか”

と。

筋膜はみかんの入ったオレンジ色の網で例えられます。
筋肉は骨から骨へ、スタートと終わりのある完結した存在。けれどそれらを覆う網となる筋膜は力の伝達を個々の筋肉を超えて伝えます。まるで直列に繋いだ電池のように。
逆に筋膜の状態が悪ければ、筋肉の出力の足を引っ張ります。
優れたプレーヤーは全身を効率よく使うことで労力少なく望む出力を出すことができ、そしてそこに洗練されたコントロール力を備えます。
それはつまり筋膜を通して全身の筋肉をひとつの連動体にすることと、その中で微調整ができるということを意味します。

4日目にあらわになった声のシステム。
見たかった喉頭を覆う筋膜は予想よりもずっとはっきりと胸骨の裏へ、そして胸の空間を縦に貫く縦隔を通して横隔膜へと繋がっていました。横隔膜はさらに大腰筋とがっちりと手を繋ぎ、それらは骨盤を越えて足の裏まで。

肋骨のサイドを開き、横隔膜を押してみて見えたもの。
私の声は上ずりました。

これは特に声楽系の方には大事なことです。
声帯の震えは確かに呼吸が起こします。
それを受けて多くの教えでは横隔膜や胸郭による呼吸や支えのコントロールを求められます。
一方別の理論では呼吸のコントロールは有害だ、というものもあるのです。

起こっている現象は同じだというのに。

ある人はとうに体感があり、ある人はどう頑張っても掴めずにいる。
筋肉と膜を通して物理的に弦の張りを”つながり”でコントロールすることは、空気を介するよりも直接的にコントロールしやすい。
また遠くからの引っ張りは首回りの筋肉のみで考えるよりも小さな力で作用を起こすことができる。運動の力線が大きいからです。では遠くからとはどこから?
それらはレッスンや教本で語られることはありません。
なぜなら、トム先生曰く「筋膜は西洋医学500年の歴史で研究が遅れてしまったところ」だから。”無い”ものは語られない。

でも伝えようとしているはずなのです。それを受け取れるか否かがその先の1ステップを決める。

広い音域と響きを愛する声楽系には必須の張り。
それはまるで一緒に奏される楽器たちと同じです。
ピンと張った弦と大きな共鳴腔。ヴァイオリン、ピアノ、古楽器なのか現代楽器なのか。時代や国が変われば音も変わり得る。

私は様々な教本を見直すところから始めています。
言い分は違えどこれのことではないのか、というポイントはすでに幾つか。
私たちが代々、盛大に取り違え続けているかもしれないところ。

むしろ現代の、より科学的に言及されたものの方が読み取るのが難しい。
より細かく定義づけようとするとこぼれ落ちてしまうのかもしれません。

あなたの弦の張りは、求めた通りのものでしょうか?
他のバランスに調整することも可能ですか?

声に管楽器としての側面はもちろんありますが、あまりに多くのことを呼吸に求めすぎてはいないでしょうか?
「息」の一言であまりに多くのことを説明しようとしていないでしょうか?
声をもう少し弦楽器としてとらえ直すことは、もしかしたら教えを受け取れずに苦しんでいる方には有益になるかもしれませんし、すでに体感がある方にはさらに高度な調整を可能にするかもしれません。
体全体で弦を張りにいく。
例えば度々言われる軟口蓋のお話も、弦楽器として考えると別の意味を持ち始めはしないでしょうか。
あくまで可能性のひとつだけれど。

私の見たかったものが、誰かの助けになるといいな。

同時にはっきりと言っておかないといけないことは、これらの連動は”繋げられること”も”切り離せること”も同じく大事だということ。
いつも一定の張りしかできないことは音の幅を固定してしまうだけではなく、長い目で見ると引っ張られている喉頭の不自由を引き起こしかねないと考えるからです。

これが他ジャンルにも共通することなのかも調べねばなりません。
特徴的な弦の張りを求める声楽系でのみ使われるものならば、それは「声」ではなくて「ヴォーカル・スキル」だからです。
しかし切り捨ててていいかというと疑問が残ります。
厚く張った地声の弦でも、その釣り合いをとるようにあるひっぱりを膜で実現させている可能性はありますし、もしかしたらそれがトッププレイヤーの所以であるかもしれないからです。

私は身体を取り巻く色々な膜のラインを学びながら、なるべく多くのジャンルの方が訪ねて来て下さることを願っています。
私のお伝えするものが役に立つか、もう使っているものなのか、逆に足を引っ張るものか、体験して頂きたいのです。

喉頭と同じく、身体と同じく、数ある中から都度選びとったバランスとして声と身体を使う。何度も選び直す。
野球選手がシーズンごとにフォームを見直すように。
それがプレーヤーを特徴づけ、そしてずっと健やかで活躍することを支えるのではないかと考えています。

長く、あっという間の4日目が終わりました。

写真はkinetikosさんから。筋膜のお話をされるトム先生。

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解剖の旅③

解剖研修もすでに3日が過ぎました。
皮膚からいくつもの膜と筋肉の層を越え少しずつ内側へ。4日目の今日は臓器を取り出します。
声のシステムがもうすぐ顕になります。もしかしたら私の考え続けてきた幾つかの仮定の真相もはっきりするかもしれません。
勉強してきた解剖学の本にないこと、アプリには乗っていない箇所も見つかり、個体差も大きく、では私たちはどうなのか、と見えるものと見えないものの間を思考が行き来し続けています。

ラボでは8時間の作業、ホテルに帰ると音楽家チームは2時間の復習会、時にはさらに議論を重ね、翌朝8時半からは筋膜研究の本アナトミートレインの著者であるトーマス・マイヤースさんのレクチャーが始まります。
ひとつも残すまいと目も耳も全開ですが、情報量も自分の中で起こることも多くて1日があっという間。夜には皆ヘトヘトになりながら議論をしています。隙間には外に出て発声を。やはり声を出すと元気になります。自分に身体が戻ってきたように。

朝のトムさんのレクチャーは私の大好きな時間のひとつ。
身体をあらゆる面から見つめていらしたトムさんは、まるで自在に変わる映画のカメラワークのように、私たちを顕微鏡の中から身体を形造る幾重もの層、全体、社会の中の身体、古代から現代、未来まで縦横無尽に飛び回りながら身体の作りと思考を見せてくださいます。

「解剖学はダヴィンチのいた時代にメスで切り分けることから始まったので、部位を分ける過程でそれらを覆う膜はいらないものとして追いやられてしまった。その結果長く研究が遅れてしまった。ひとつの卵の細胞から出発した私たちは、部品でできているわけではない。バラバラにならずにすむのはひとつの膜がそれらを覆っているから。私たちはひとつの大きな筋肉なんだ。」
トムさんは強く何度も話されます。

いくつものジャンルに縦割りされ、メソッド化される身体へのアプローチ方法は全体性で見れば実はとてもナンセンスなこと。さらに商業主義によってそれらは競争しあい、ことはさらにややこしくなります。
産業革命以降、加速度的にアンバランスになる私たちの身体。
トレーナーたちはあえてある部位を、もしくはある仕組みを取り出してアプローチしながら、ずっと自分たちが不要になる日を待っています。

ラボで8柱のご献体を前に、実に沢山のジャンルの医療者やトレーナーがそれぞれ異なるテーマで学びを続けています。
ふと顔を上げて白衣の群れを見た時、これはまるで社会のようだなと思いました。全く違うやり方で取り組みながら、でもそれはみんなひとつの身体のことを手分けしているのだから。
解剖学者のトッドさんが毎日おっしゃいます。
「これは全員でひとつの大きなプロジェクトなんですよ」

This is One Big Project !

写真はお昼休みにラボの前でトッド先生とみんな。

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解剖の旅② ー声の意図のおはなし

グランドキャニオンにて。
谷に沿って眺望ポイントを巡っていると、「エルクがいるわよ!」と声をかけられた。
手が届きそうな距離でじっと見つめていると小柄な馬サイズのエルクは優しい鳴き声をあげた。仔犬がクゥンと泣くような。
あぁ声だ、なんてラッキーだろう、と目を見開いていると、崖の向こうからエルクの子供達がわらわらと集まってくる。どうやら子供たちを呼ぶ声だったらしい。
なるべく似せて鳴き真似をすると大きいエルクと小さめのエルクたちはじっとこちらを見つめ返している。警戒している風でもない。
ひどい訛りだ、とでも思われただろうか。
この日は一日、ホイッスルボイスと飛ぶ鳥の鳴き真似をしていた。
目一杯引き伸ばすホイッスルは、声帯のストレッチが苦手な人にいい。色々筋肉を巻きこみながら裏声を出している人にも。
時折鳥が鳴き返してくれる。

声を出すシステムは、最初から声のために作られたんだろうか?と時々考える。それとも嚥下や呼吸用のものをなんとか操って?
声屋はつい声帯は声を出すところ、と思ってしまうけれど、実は声よりも呼吸や嚥下の仕事の方が生きるには重要なんじゃないか。
群れにはコミュニケーションが必須だから、本能のものであることは疑わないけれど。どちらが優先かで随分印象が違う。
私たちの体の部品が、まさに歌い喋るために作られていたとしたら嬉しいなと思う。歌う生き物なんだよと。

身体にはそれぞれ「こう使ってくれ」という意図が感じられる。
固くがっちり脳を守りたい頭蓋と、生命活動のためにアクロバティックに動きたい顎関節から下。急所を作ってまで可動性を重視した頸。
呼吸、食事、そしてコミュニケーション。身体の「外」とどう繋がるか。
顔のセンサーを助け自在に動く触角となる頸の内部で、さらにアクロバティックに泳ごうと、喉頭は浮いている。音出す弦はその中に。
入れ子の構造の内と外で影響を与え、与えられながら、立体的に目当ての弦の張りのバランスを見つける。
声を操るひとは、そんなアクロバットするシステムを思い通りに操りつづける職人だ。

自然の中にいる人はやさしい。
「今日はどうだった?」「晴れるといいわね。」「いい日になりますように!」
ここでは人間がお客さんだ。大きなものの前では、人は「人間」という塊になって団結するのかもしれない。働く人もこの場所が誇らしく、紹介したくてうずうずしている様子。
次の日、エルクはロッジの前にも現れた。
「あ、お邪魔してます」
我々の挨拶が変わっていて笑った。

フェニックスへ移動。

いよいよ明日、解剖が始まる。

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