音楽の楽しみ

寒すぎる週末でした。
春から半年間続いた身体の勉強が一区切りです。(といってもすぐに次が始まるのだけれど…)
コンサートもずっとおあずけだったので、半ば自分へのご褒美な気持ちで3日間のお休みを頂き、ロベルタ・マメリさんの声楽特別講座の聴講に行ってきました。
ソロ、デュエット、マドリガル。
みんなのお姉さんみたいな先生は気さくで美しくって、ひと声でみんな息をのんでしまう。

去年クラスにお邪魔した時はとにかく声を、身体を受け取りたくて必死で、私はきっと噛みつかんばかりの凝視だったことでしょう。
今年はとにかく楽しくて、去年透けて見えなかった辺りにするりと頷けました。
こういう時が来るために、懸命に勉強しているんだ、と思う。
同じ場にいても、受け取れるものはどんどん変わる。来年はもっとそうでありたい。

今年は身体をするりと飲み込めたので、その先の音楽のお話に耳がよく働きました。
“力も、国も、恋人も、友も、全て失った”と船で風を受ける彼女が、“友”と言う時だけ音程が動く。
この人は何よりもそれが辛かったんだね、恋人はしばしば簡単に心を変えるものだけれど、友人はそうではないと信じているから。と先生。

本当に何もかも失った時、私はどんな声をもらすだろう。
美しくって切なくってちょっとウッとなりました。

いつだって身体や声のことなんか全て忘れて、こういうことに尽力したい生き物なんじゃないかなと思ったりします。音楽家は。
忘れるために学ぶ。

素晴らしい時間でした。さて、元気を頂いて今日からしっかり働いてます。

写真は講座の間に糖分補給に食べたシュークリーム♪

“ボイス”をトレーニングすること

声や身体をトレーニングする、ということは、実は表現のスタートラインですらないと常々思います。
私たちの身体は、素晴らしいバレリーナになることもできた。武道の達人になることも、超絶な歌手になることもできた。私たちの身体はそのように育っていてもよかったものです。
その可能性を知っているから私たちは子供に色々やってごらん、と旅をさせるのでしょう。

最初のセッションで、私は沢山そんなことをお伝えすることにしています。身体のそもそもや可能性。つまり、”声ってなんぞや?”
なぜか。
声のことを話すとき、しばしば私たちは「声」というものがもう存在しているかのように語ったりします。もしくは今ある声を土台に、音域や音量や音質のオプションを付け加えていくような。
「私の声って…」「もっとこんな声を…」

けれど声というのは現象です。色んな運動や、組織や、信号や、メンタルや、沢山の事柄の作用の結果が形になったものです。
それは私たちの肉体と同じ。今ある身体は今までの使い方の結果であり、どう使おうとするかの作用の選択結果です。太り具合も筋肉の差も、可動域も成長具合も、そして出力も。自分で知らず選んできたもの。

“自分で選んでいるようでいて、その実スタートラインを選ばされてはいないだろうか?”

今ある身体で、今出る声で、この先のプレイの幅を決めねばならない、なんてことはないはずです。けれども懸命なプレイヤーほど囚われてしまいやすくもあるのでしょう。
課題を感じて訪ねてくださる方とお話をしながらそんな風に感じたりします。

ソプラノなのかアルトなのか、キャラクターやジャンルの向き不向き、響き、地声と裏声、プレイの限界。一時の身体の特徴ひとつで、一体何を見極められるというのでしょうか。

やりたい事をやればいい。気に入ったものを好きなだけ。それだけの力を、身体はちゃんと備えてくれている。

そのスタートラインを一緒に確認して走り始める事を、私はとても大事だと感じています。それはかつて私が欲しかった言葉でもあるからです。

プレイとは別に身体を耕しておくこと。
それは自分の中に眠っている色んな可能性に気づき出すことでもあります。
素晴らしい声を出せることや超絶技巧ももちろん素敵だけれど、幾つになっても自分の中に尽きることのない可能性を見続けられる、そんな提案ができるのは幸せなこと。トレーナーは地味だけどなかなかに面白いお仕事です。

それを現実的な議題にできるように、私は解剖・運動学に取り組み、実際にメスを持ちました。

芸能をする方がトレーニングを必要としていらっしゃる場合というのは、何か自分の声に違和感や不自由を感じているか、さらに上に行くために変化を求めていらっしゃるからです。

「来た人の声を何も否定しないレッスンって珍しいですね」
先日いらした方が下さった感想です。
トレーニングする時に、私は声に欠けらも”正しさ”を求めません。美しさも、響きも、音程も。でも「声」のトレーニングって本当はこういうことではないでしょうか?
歌のレッスンではありませんからね。

身体は色んな音を出すように元々できています。
社会的に好まれるかどうか、売れるかどうか、美しいかどうか、そんな様々な要素で「使わない音」は大人になるにつれて増えていくけれど。それがじわじわと「使えない音」になっていないでしょうか。

近頃は赤ちゃんも自由に泣かせてもらえないのかしら、と公共の場所でドキドキする場面も増えてきました。
けれども表現者はその流れに乗ってはいけない。
使えない音がある身体の出す「使える音」は、不自由の中で出された音ですから精度も落ちます。どうしても。
身体から出る音はどんな類の音も全てが宝であり武器です。その中からいかに美的な選択ができるか、というのはセンスをどう磨くかという、また別のお話なのです。
こちらももちろん、終わりのない学びです。

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箱、祈りの音。

今年から新たな勉強が始まります。
避けては通れない、けれど手を出さずにいたところです。
知識で知ってしまう前に、自分が何を感じるのかに少し預けてみたかった。
メモも取らずに手に残ったものだけ拾う感じできましたが、きっと最初にしか見えないこともあるでしょうから。きちんと受け取っていけるといいのですが。
色んな先生方やプレーヤーさんや友人たちや本や、とにかく沢山の方がほの見せて下さっていることが、帰国後スパークしまくっていて頭がてんやわんやしています。まだ自分の箱がちっぽけすぎて笑ってしまうけれど。
一個一個ゆっくり開けていこうと思います。

資料を漁っていたら、秋の日記みたいなもの(!)が出てきました。もう既にちょっと考えが違うのが笑えます。
私がおばあちゃんになった頃には何を見ているのでしょうか。

写真はグランドキャニオンのタワーで見たホピ族の壁画。そこでいいお話が聞けました。が、それはまたいつか。

2016年9月10日、朝6時。
解剖学と運動学の先生をお見送りして、また声と体について思いを巡らせています。

この身体が声を出すシステムは実はとてもシンプルで理屈通り。だからこそ可能性は無限で奥が深い。それは他の楽器と変わらない。

唯一弦も弓も共鳴腔も体内にあるこの楽器は見えづらい。なのでどうにか使いこなそうと、世界中の芸能の教えには、何百年も千年もかけて培ってきた技とコツが詰まっている。この楽器を体感し、コントロールするための技が。
一人の人間が一生で体現できる技には限りがあるけれど。

外にある楽器と違って、変容し変質する身体の各部位が絶妙なバランスを実現した時のみ、望む楽器という形が出現する。形あるもの、ないものを含め、その時だけ楽器に変身すると言ってもいいかもしれない。
そういった意味では、訓練中の大抵の声のプレーヤーは、まだ楽器すら手に持てていない演奏者だ。
音楽を、芸能をするというのはその先にある。その楽器で何をするのか、だからだ。

さて、数え切れないプレイヤーと教師の身体を依り代にしながら伝わってきたその技は、そのジャンルの芸能が体とどう向き合いたかったのかを伝えている。
伝えたいのは技ではない。技を通して、楽器を伝えたいのだ。そしてその先を。だからメソッドや魔法のひとふりに囚われすぎてはいけない。

静かに、かつアクロバティックに踊る声のシステムの使い方をどう選択し、どのバランスを愛するか、という視点で芸能を見つめる時、それはすなわちその文化を育んだ風土や生活、死生観なんかを透かし見ることでもある。
どんな野山が広がっていて、どんな植物が多くて、どんな建物に住んでいたのか。空気はどれくらい乾いていて、その人達の神様はどんな姿だったのか。天に?地に?
そこで音はどんな風に鳴り響いただろうか?
すなわち、『なぜ、彼らはその体の使い方を選んだのか?』

住んでいる土地の芸能をすることは、元来とても自然なことだ。住環境と美意識、死生観まで一致しているから。そして異なる芸術と出会うということは、異邦人がやってきたことを意味していただろうし。
一方現代で芸能をするということは、美学の選択を意味する。
世界中の文化が入り混じり、技術が驚くべき発達を遂げ、住環境が変化するなかで、いずれかの文化を選択して育てる作業。場合によっては一生母国にも帰らない文化。私たちの体の中で文化の混血も生みながら。

それはまるで日本のあり方そのものみたい。海の向こうに思いを馳せながら。この国の音も愛しながら。
さて、異なる文化に出会ったときに、一体どう反応しようか?

声と体を考える時、自分たちが何を愛し、選んでいるのかを考えずにはいられない。
声は生物の、生活の、祈りの、音だ。

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