「声」を透かし見ると、まるで弦楽器と管楽器が共存しているようなシステムが浮かびあがります。私たちの身体の中に。
頭にコントロールセンターを、顔面にセンサーを備えた私たちの身体は、顎関節から下で生命活動のアクロバティックな動きが始まります。「呼吸」「嚥下」「発声」。
嚥下と呼吸を切り替えるスイッチングを担う喉頭は主に4つの足場から吊るされ宙空に”浮いて”いて、声出す声帯はその中に張られています。まるで軟骨に渡された吊橋のように。
・吊橋を揺らすのは「息」が
・吊橋の張り具合を決めるのは喉頭の内外に張り巡らされた「筋肉」が
つかさどります。
どんな声でも、ジャンルでも、このこと自体に差はありません。
これだけでも私たちが「声質」と呼んで感じているものが生まれ持った性質ではなく、使い方の結果としてようやく現れるものだということがよくわかります。と同時に誰もが備えている能力であることも。
吊橋は、「開閉」「音程」「音質」を担当する実に沢山の筋肉たちによって”望む張り方”が選択されます。
しかし機械のようにON/OFFができるというわけにはいきません。
声帯は男性でも親指の爪くらい、女性では小指の爪くらいの長さしかなく、それを操作する筋肉たちに至ってはその細かさはメスをもってしても容易に見ることも叶わないほど。主導する筋肉を交代しながら、全体で喉頭の角度や吊橋の張りをどうにか誘導している、と言った方が近いかもしれません。“使う”ことも“使わない”ことも含めてです。
さらに吊橋の上にある仮声帯の出すがなりは感情と深い関係があるともいわれ、日本の話芸をはじめ様々な芸能ではこれを操る術をもっていますが、医学的にはまだ否定されることも多く、研究が待たれます。
息の通り道に幾重にも備えられた調節のネジは上にも下にもさらにさらに続きます。喉頭蓋、舌、咽頭、軟口蓋、顎、唇、名前に挙がることのない部位でさえ幾らでも。
それらのネジを使い分ける(思い通りの音を選ぶ)ためには、それぞれの筋肉の出力を上げ、指令を伝える神経が育つのを待たねばなりません。
多くの方は使い分けることができずに不必要な筋肉を巻き込みながら、どうにか目当ての音を出しています。ちょうど初めて自転車に乗る子供が全身の筋肉をガチガチに固めながら乗るように。
口腔で作られる構音や滑舌、喉頭で操られる発声、体幹や四肢で行われる呼吸や姿勢保持は互いに影響を及ぼし及ぼされ、さらに全身をつなぐ効率のいい筋膜のラインのなかで声帯への物理的張力と気流、気圧とタッグを組み、初めて真の生き生きとした楽器を現出させることになります。
それらはつまり天才たちが身につけているもの。
私たちが全身の楽器を最大限に使いこなすためには、時に分解し、時に出力を上げ、再連動させる必要があります。混線してこんがらがった筋肉のままでは互いが邪魔をしあい、出力が上がらないばかりか、故障の原因にもなり得るからです。
弦も弓も共鳴腔も全てナマモノのこの楽器を使いこなすことはなかなか難しく、そしてだからこそ可能性に満ちたこと。
その「完成した楽器」をもってプレイヤーは魂のもとで弓をひくのです。
何がいい声なのか?
その問いに私はこう答えたいと思います。
心がその瞬間、望んだ通りの音が出せること。
いつまでも、なんどでも、この世を去る瞬間まで叶うこと。
それがいい声だと思うのです。