箱、祈りの音。

今年から新たな勉強が始まります。
避けては通れない、けれど手を出さずにいたところです。
知識で知ってしまう前に、自分が何を感じるのかに少し預けてみたかった。
メモも取らずに手に残ったものだけ拾う感じできましたが、きっと最初にしか見えないこともあるでしょうから。きちんと受け取っていけるといいのですが。
色んな先生方やプレーヤーさんや友人たちや本や、とにかく沢山の方がほの見せて下さっていることが、帰国後スパークしまくっていて頭がてんやわんやしています。まだ自分の箱がちっぽけすぎて笑ってしまうけれど。
一個一個ゆっくり開けていこうと思います。

資料を漁っていたら、秋の日記みたいなもの(!)が出てきました。もう既にちょっと考えが違うのが笑えます。
私がおばあちゃんになった頃には何を見ているのでしょうか。

写真はグランドキャニオンのタワーで見たホピ族の壁画。そこでいいお話が聞けました。が、それはまたいつか。

2016年9月10日、朝6時。
解剖学と運動学の先生をお見送りして、また声と体について思いを巡らせています。

この身体が声を出すシステムは実はとてもシンプルで理屈通り。だからこそ可能性は無限で奥が深い。それは他の楽器と変わらない。

唯一弦も弓も共鳴腔も体内にあるこの楽器は見えづらい。なのでどうにか使いこなそうと、世界中の芸能の教えには、何百年も千年もかけて培ってきた技とコツが詰まっている。この楽器を体感し、コントロールするための技が。
一人の人間が一生で体現できる技には限りがあるけれど。

外にある楽器と違って、変容し変質する身体の各部位が絶妙なバランスを実現した時のみ、望む楽器という形が出現する。形あるもの、ないものを含め、その時だけ楽器に変身すると言ってもいいかもしれない。
そういった意味では、訓練中の大抵の声のプレーヤーは、まだ楽器すら手に持てていない演奏者だ。
音楽を、芸能をするというのはその先にある。その楽器で何をするのか、だからだ。

さて、数え切れないプレイヤーと教師の身体を依り代にしながら伝わってきたその技は、そのジャンルの芸能が体とどう向き合いたかったのかを伝えている。
伝えたいのは技ではない。技を通して、楽器を伝えたいのだ。そしてその先を。だからメソッドや魔法のひとふりに囚われすぎてはいけない。

静かに、かつアクロバティックに踊る声のシステムの使い方をどう選択し、どのバランスを愛するか、という視点で芸能を見つめる時、それはすなわちその文化を育んだ風土や生活、死生観なんかを透かし見ることでもある。
どんな野山が広がっていて、どんな植物が多くて、どんな建物に住んでいたのか。空気はどれくらい乾いていて、その人達の神様はどんな姿だったのか。天に?地に?
そこで音はどんな風に鳴り響いただろうか?
すなわち、『なぜ、彼らはその体の使い方を選んだのか?』

住んでいる土地の芸能をすることは、元来とても自然なことだ。住環境と美意識、死生観まで一致しているから。そして異なる芸術と出会うということは、異邦人がやってきたことを意味していただろうし。
一方現代で芸能をするということは、美学の選択を意味する。
世界中の文化が入り混じり、技術が驚くべき発達を遂げ、住環境が変化するなかで、いずれかの文化を選択して育てる作業。場合によっては一生母国にも帰らない文化。私たちの体の中で文化の混血も生みながら。

それはまるで日本のあり方そのものみたい。海の向こうに思いを馳せながら。この国の音も愛しながら。
さて、異なる文化に出会ったときに、一体どう反応しようか?

声と体を考える時、自分たちが何を愛し、選んでいるのかを考えずにはいられない。
声は生物の、生活の、祈りの、音だ。

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