グランドキャニオンにて。
谷に沿って眺望ポイントを巡っていると、「エルクがいるわよ!」と声をかけられた。
手が届きそうな距離でじっと見つめていると小柄な馬サイズのエルクは優しい鳴き声をあげた。仔犬がクゥンと泣くような。
あぁ声だ、なんてラッキーだろう、と目を見開いていると、崖の向こうからエルクの子供達がわらわらと集まってくる。どうやら子供たちを呼ぶ声だったらしい。
なるべく似せて鳴き真似をすると大きいエルクと小さめのエルクたちはじっとこちらを見つめ返している。警戒している風でもない。
ひどい訛りだ、とでも思われただろうか。
この日は一日、ホイッスルボイスと飛ぶ鳥の鳴き真似をしていた。
目一杯引き伸ばすホイッスルは、声帯のストレッチが苦手な人にいい。色々筋肉を巻きこみながら裏声を出している人にも。
時折鳥が鳴き返してくれる。
声を出すシステムは、最初から声のために作られたんだろうか?と時々考える。それとも嚥下や呼吸用のものをなんとか操って?
声屋はつい声帯は声を出すところ、と思ってしまうけれど、実は声よりも呼吸や嚥下の仕事の方が生きるには重要なんじゃないか。
群れにはコミュニケーションが必須だから、本能のものであることは疑わないけれど。どちらが優先かで随分印象が違う。
私たちの体の部品が、まさに歌い喋るために作られていたとしたら嬉しいなと思う。歌う生き物なんだよと。
身体にはそれぞれ「こう使ってくれ」という意図が感じられる。
固くがっちり脳を守りたい頭蓋と、生命活動のためにアクロバティックに動きたい顎関節から下。急所を作ってまで可動性を重視した頸。
呼吸、食事、そしてコミュニケーション。身体の「外」とどう繋がるか。
顔のセンサーを助け自在に動く触角となる頸の内部で、さらにアクロバティックに泳ごうと、喉頭は浮いている。音出す弦はその中に。
入れ子の構造の内と外で影響を与え、与えられながら、立体的に目当ての弦の張りのバランスを見つける。
声を操るひとは、そんなアクロバットするシステムを思い通りに操りつづける職人だ。
自然の中にいる人はやさしい。
「今日はどうだった?」「晴れるといいわね。」「いい日になりますように!」
ここでは人間がお客さんだ。大きなものの前では、人は「人間」という塊になって団結するのかもしれない。働く人もこの場所が誇らしく、紹介したくてうずうずしている様子。
次の日、エルクはロッジの前にも現れた。
「あ、お邪魔してます」
我々の挨拶が変わっていて笑った。
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いよいよ明日、解剖が始まる。
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