声や身体をトレーニングする、ということは、実は表現のスタートラインですらないと常々思います。
私たちの身体は、素晴らしいバレリーナになることもできた。武道の達人になることも、超絶な歌手になることもできた。私たちの身体はそのように育っていてもよかったものです。
その可能性を知っているから私たちは子供に色々やってごらん、と旅をさせるのでしょう。
最初のセッションで、私は沢山そんなことをお伝えすることにしています。身体のそもそもや可能性。つまり、”声ってなんぞや?”
なぜか。
声のことを話すとき、しばしば私たちは「声」というものがもう存在しているかのように語ったりします。もしくは今ある声を土台に、音域や音量や音質のオプションを付け加えていくような。
「私の声って…」「もっとこんな声を…」
けれど声というのは現象です。色んな運動や、組織や、信号や、メンタルや、沢山の事柄の作用の結果が形になったものです。
それは私たちの肉体と同じ。今ある身体は今までの使い方の結果であり、どう使おうとするかの作用の選択結果です。太り具合も筋肉の差も、可動域も成長具合も、そして出力も。自分で知らず選んできたもの。
“自分で選んでいるようでいて、その実スタートラインを選ばされてはいないだろうか?”
今ある身体で、今出る声で、この先のプレイの幅を決めねばならない、なんてことはないはずです。けれども懸命なプレイヤーほど囚われてしまいやすくもあるのでしょう。
課題を感じて訪ねてくださる方とお話をしながらそんな風に感じたりします。
ソプラノなのかアルトなのか、キャラクターやジャンルの向き不向き、響き、地声と裏声、プレイの限界。一時の身体の特徴ひとつで、一体何を見極められるというのでしょうか。
やりたい事をやればいい。気に入ったものを好きなだけ。それだけの力を、身体はちゃんと備えてくれている。
そのスタートラインを一緒に確認して走り始める事を、私はとても大事だと感じています。それはかつて私が欲しかった言葉でもあるからです。
プレイとは別に身体を耕しておくこと。
それは自分の中に眠っている色んな可能性に気づき出すことでもあります。
素晴らしい声を出せることや超絶技巧ももちろん素敵だけれど、幾つになっても自分の中に尽きることのない可能性を見続けられる、そんな提案ができるのは幸せなこと。トレーナーは地味だけどなかなかに面白いお仕事です。
それを現実的な議題にできるように、私は解剖・運動学に取り組み、実際にメスを持ちました。
芸能をする方がトレーニングを必要としていらっしゃる場合というのは、何か自分の声に違和感や不自由を感じているか、さらに上に行くために変化を求めていらっしゃるからです。
「来た人の声を何も否定しないレッスンって珍しいですね」
先日いらした方が下さった感想です。
トレーニングする時に、私は声に欠けらも”正しさ”を求めません。美しさも、響きも、音程も。でも「声」のトレーニングって本当はこういうことではないでしょうか?
歌のレッスンではありませんからね。
身体は色んな音を出すように元々できています。
社会的に好まれるかどうか、売れるかどうか、美しいかどうか、そんな様々な要素で「使わない音」は大人になるにつれて増えていくけれど。それがじわじわと「使えない音」になっていないでしょうか。
近頃は赤ちゃんも自由に泣かせてもらえないのかしら、と公共の場所でドキドキする場面も増えてきました。
けれども表現者はその流れに乗ってはいけない。
使えない音がある身体の出す「使える音」は、不自由の中で出された音ですから精度も落ちます。どうしても。
身体から出る音はどんな類の音も全てが宝であり武器です。その中からいかに美的な選択ができるか、というのはセンスをどう磨くかという、また別のお話なのです。
こちらももちろん、終わりのない学びです。
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